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軍事に戦いの備え、空間では戒厳令の解除
1961年中国大躍進政策の失敗、ベトナム戦争及び中国の核爆弾試みの成功などを重なり、蒋介石さんが中国への反撃をしなければいけないと深く感じまして、1961年4月に、台北県三峡に「国光作業室」を成立し、207名のエリートを動員することによって、密かに進行するのは中国への反撃軍事計画の「国光計画」です。よって、慈湖も重要な軍事管制区になってきました。
1960年になって、中国が積極的に原子爆弾を発展してきまして(1964年10月16日、中国最初の原子爆弾テストが成功しました)、蒋介石さんにも不安を感じました。よって、国民政府の各単位にもっと防空訓練、防空壕作りなどを積極的に進行させ、その後、1963年8月に慈湖の防空壕も戦時指揮所として完成しました。約150メートルの長さ、Fの型で、トイレ、台所、発電機の電気設備室、通信設備及び指揮所など、主な二つの入り口に、厚みがある三つの防爆ゲートを設置してあります。いざという時に攻撃を防止することができて、戦争が始まったとしても独立に作業して、軍事指揮することが可能です
後慈湖には官舎が五棟あります。3棟目の官舎が地層問題で1969年に建てられたこと以外、他の官舎はすべて1963~1964年の間に完成しました。1番目と3番目の官舎は台湾銀行が建築する責任を取って建てましたが、その他は全部総統府の責任となり、招待所、秘書長、副秘書長、参軍長および侍従長の疎開事務所として使う予定でした。ただ、実際に戦争が発生しなかったですので、2番目と3番目の官舎は管理人の寮と駐在憲兵が利用したこと以外に、その他の建物は一度も使ったことはなかったです。
現在、後慈湖はもう軍事用途がなくなり、桃園県政府が積極的にオープンすることを主張することによって、2007年11月に正式に桃園県政府に託されました。公開オープンするためにお手入れをして、計画しています。後慈湖は長年に軍事管制されて、今でも完全に自然景色や生態環境をキープしてありますから、遊びやリラックスできるガーデンや庭として、皆に自由に使ってもらいたいです。
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